【投稿小説】女子化薬ジョシナミンXX

小説

作 九重慧 
挿絵 カネコナオヤ

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『女子化薬 ジョシナミンXX』

本商品は、男性を一時的に〝女子〟の外見に変えることのできるジョークグッズです。本商品を浴びた男性は、服装ごと外見が女子化されます。女子化液が乾くと、その姿でしばらくの間、固定されます。元の外見に戻る際は浴槽で湯に浸かり、成分をよく洗い流して下さい。 

【注意】

本商品による女子化は数時間から長くても半日程度で、効果が切れると自動的に元の姿に戻ります。なお、本商品は内服用ではありませんので、決して飲まないでください。万一誤飲した場合はすぐに医師による診察を受けてください。

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 頭上から落下してきた「何か」。

 それを手で弾いたと思ったら、頭から水をかぶっていた。

「冷たっ……!?」

 何がなんだかわからないまま、僕は教室の入り口で尻もちをついてしまった。

 眼前で、空の瓶が床を転がる。

 髪をつたってポタポタとしずくがしたたり落ちる。漂ってくる、かすかに甘い香り。

 瓶に入っていた水――いや、無色透明だが得体の知れない液体――で、首から上がびしょ濡れだ。

        ◇

 最近、我が校の風紀は乱れている。

 まずは、そこから話をしておこう。

 そう。校内に問題児たちがいて、おかげで学校全体の規律が緩んでいるのだ。

 都立高の中でも上位の進学校だというのに嘆かわしい。

 近頃は、一見ふつうの生徒たちが問題を起こすことが多い。

 あからさまな「不良」「ヤンキー」などは、もはや漫画の中にしかいない。

 かわりに、一見「ふつう」の生徒が教師の目をかいくぐって、いじめを起こしたり、不純異性交遊をする。

 ここのところ頻発しているのは、ジョークグッズによる悪戯だ。

 ジョークグッズといっても、昔の素朴なものとはちがう。僕が生徒だった頃は、吸うと声が甲高くガスだの、本物のように動きまわる虫のオモチャやらだった。

 それがいまや先端技術の応用とやらで、ひと昔前だと考えられないような効果のある品物が出回っている。

 先日は校内の空き教室で不純異性交遊をしているグループをとっ捕まえた。

 主犯格は、一ノ瀬俊章という二年の生徒で、いままでも様々な「いたずら」事件を起こしている問題児だ。

 一ノ瀬とその取り巻きの男子たちは、剣道部の女子生徒たち数人を教室に連れ込んでよからぬことをしようとしていた。僕が踏み込んだ瞬間、一ノ瀬たちは文字通り脱兎のごとく逃げようとしたが、ズボンをひざまで下ろしていたせいで、ぶざまにひっくり返っていた。まあ、応援の先生に出入り口前で待機してもらったので、どのみち逃げられないが。

 このときは持ち物検査の結果、ジョークグッズの「チャームスプレー」という品が見つかった。

 説明書きを読む限り、これは女性にのみ効果のあるガスで、吸い込むと最初に見た異性に惚れてしまうという性質があるらしい。効果は数時間ほどで抜けるらしい。

 そのスプレーの製造・販売元は「スペルザらス」と記されていた。――最近、うちの校内でよく見かけるジョークグッズの供給源だ。

 剣道部の女子たちは明らかにスプレーを嗅がされて正常な判断力を失っているようだった。普段なら凛とした空気をまとって、どちらかというと男子を寄せ付けないタイプの少女たちが頬を赤らめ、一ノ瀬たちの腕をとり、体を密着させている。

 ほうっておけばその状態が半日続くのだから、それは不純異性交遊に発展するだろう。

 僕と応援の先生が、一ノ瀬たちの隠し持っていた解除スプレーを女子生徒たちに嗅がせると、すぐに彼女たちは正気に戻り、一ノ瀬たちを掃除用のモップでボコボコにした。

 まあ、一ノ瀬にはいい教訓だろう。

 僕はたっぷり時間をおいてから止めに入り、女子生徒たちを帰らせた。

 結局、一ノ瀬と取り巻きには一週間の謹慎処分がくだった。

 例のスプレーもしょせんはジョークグッズだったということで、騒動の割には軽めの処分となった。

 一ノ瀬の父親が某保守政党の有力者だとかで、校長や生徒指導部はいつも弱腰だ。

 連中が妙なジョークグッズを仕入れて騒動を起こしたのは、別にそれが初めてじゃない。

 それどころか、職員室の僕のデスクの引き出しは、没収したグッズ類で一杯だ。その大半は、例の「スペルザらス」印の品だ。まったく変なものばかり販売して、迷惑きわまりない。

 国道沿いのショッピングモールの片隅に、小さな雑貨屋があって、そこが「スペルザらス」商品を取り扱っているらしい。

 没収品も勝手に捨てるわけにもいかず、一応保護者が引き取りにくるまで保管していないといけないのだから厄介だ。

 まったく。生活指導係なんて、特別手当もつかないのに面倒事ばかり増える。

 とはいえ、引き受けたからには途中で投げ出すわけにもいかない。うちは一応進学校だから、あまり風紀が乱れると、教育委員会からすぐ文句をいわれる。

 自分の将来のためにもまじめにクソガキどもの指導をしなきゃならないってわけだ。

 指導をしたところで、現実はドラマじゃないので、クソガキが反省して心を入れ替えたりはしない。

 こちらもぶっちゃけ、そんなことを期待しちゃいない。

 ただ、僕が生活指導係として目を光らせているあいだは、騒ぎを起こしただけグッズも没収され反省文まで書かされて、自分たちが損をするだけってことは学習してほしいものだ。

 ちなみに彼らには僕が学生時代、柔道の県代表だったことは伝えてあるので、間違っても暴力に訴えて反抗しようという気にはならないはずだ。

 

 一週間後、謹慎期間の明けた一ノ瀬たちは、へらへら笑いながら登校してきた。

 どうせまたろくでもないイタズラを考えてそうな顔だ。

 まあいい。そのときはまた僕が粛々と取り締まって、グッズを没収してやるまでだ。

 と、そう思っていたのだが、それ以来一ノ瀬たちはおとなしくなって、授業にもきちんと出席するようになった。

 さすがに二年の夏休みも過ぎて、ああいうクソガキも受験を意識するようになったのかもしれない。

 それから一ヵ月ほどは、生活指導の案件もなく、平和な日々だった。

 そのせいで僕は完全に油断していた。

 クソガキどもが反省したりするわけないって、知ってたはずなのに――。

 その日、担当教科の授業のため、僕は二年A組の教室にやってきた。

 珍しく教室内は比較的静かだ。前回はチャイムも鳴ったのに教室内で「逃走中」ごっこをしていた連中に課題レポートをプレゼントしてやったので、さすがに懲りたか。

 入り口の引き戸を開けて、教室へ足を踏み入れる。

 引き戸のレールを跨いで、半身が教室内に入る。

 その瞬間、何かが落下した。

 頭上に落ちてくる、小さな黒い影。

 視界の隅に捉えたときに、それはもう頭上に迫っていた。

 咄嗟に手を振り上げた。自分でも感心するほどの反射速度だった。

 頭上の小さな物体に手がぶつかり、それが液体の入った瓶だと理解した。

 だけど理解したときにはもう、瓶の中身をもろに頭からかぶっていた。

 ここで、話は冒頭に戻る――。

 どっと教室中で笑いが起きた。

「…………っ」

 どうやら僕はまんまと、古典的なイタズラに引っかかってしまったらしい。

 戸を開けると、上から黒板消しが落ちてきたりするあれだ。今回はなぜか、液体入りの瓶だったが。

 くそっ。不意打ちとはいえ、尻もちまでついて醜態をさらしてしまった。

 このあと卒業まで事あるごとに、僕のリアクションを物真似されるかと思うと、屈辱に頬が赤らんでくる。

 いや、ここは冷静になろう。しょせんは、取るに足らない子どものイタズラだ。

 僕は平静を装って立ち上がろうとしたが、なぜかうまく力が入らなかった。再び、尻もちをついてしまう。

 生徒たちの笑いが、ちょっとしたどよめきに変わった。

 ぽた、ぽた。ぽた、ぽた。

 ぐっしょり濡れた頭から、しずくが落ちる。

 なぜだか、先ほどまでより濡れた髪の束が、床に近かった。

 何かが、おかしい。

 ぽた、ぽた。ぽた、ぽたっ……

 ほのかに甘い匂いのする液体が髪からしたたって、上半身全体をしとどに濡らしていった。

 なぜか頬の上気がおさまらない。

 それどころか、視界が霞んだ。やっぱり、何かが決定的におかしい。

 水分を吸った衣服が肌に張り付いて、ぞわぞわとうごめくような不思議な感触があった。

 視界が元に戻ったとき、僕の眼下には、見慣れないふたつの丘が、せり出していた。

 それだけじゃない。投げ出された脚はいつのまにか、スラックスではなく黒いナイロンの生地につつまれ、妙に艶めかしい曲線を描いていた。その先端には――ヒールのある赤い女物の靴が。

 どう見ても女性の脚なのに、体の感覚はそれが僕の脚なのだと告げている。

 両脚の付け根はスカートに隠れ、その先にはくびれた腰があった。

 もう一度上半身を見下ろすと、ネクタイはいつのまにか消え失せ、白いワイシャツはブラウスに、ジャケットの仕立てもソフトなシルエットに変わり、ボリュームのあるやわらかなふくらみがジャケットの胸元を押し上げていた。

 いつのまにか教室はしんと静まりかえって、一ノ瀬俊章の「くくっ」という含み笑いだけが聞こえてきた。

 また、あいつの仕業か――!

 僕は転がっていたビンを拾い上げた。ビンのラベルには、男性と女性を表す記号とともに、『ジョシナミンXX』という怪しげな商品名が印刷されている。裏のラベルには使用方法と注意書きがあった。

 どうやらこいつは、例のジョークグッズシリーズの新商品らしい。

 ジョークの範疇を完全に越えているんだが。

 目の錯覚などではなく、胸のふくらみが重く感じられる。両脚にはぴっちりした黒タイツの感触がある。

 肉体どころか服装ごと〝女子化〟させるなんて、先端技術の無駄遣いにも程があるぞ。なんなんだ、この会社の商品は。

 とにかく、こういうときはイタズラにまともにとりあうと問題児たちを喜ばせるだけだ。

 ずれてた眼鏡をかけなおすと、僕はゆっくり、慎重に立ち上がった。

 体の重心がいつもと違うので、変な感じだ。

 一歩ごとに胸のふくらみが微妙に揺さぶられる。

 ヒールのある靴で躓かないよう注意して教壇に立った。

「授業が終わったら、一ノ瀬は生徒指導室へ来るように」

 そう前置きして、僕は授業を始めた。

 随分と可愛い声が自分の声帯から出てきてぎょっとするが、そんなことはおくびにも出さない。

 さっそく生徒たちから茶々が入った。

「えっと……先生、そのカッコのまま授業するんですか?」

「地球上の人口の約半分は女性なんだぞ。現国の授業をするのに、男も女も関係ないからな」

 生徒たちは僕が慌てふためいて、女子化薬の成分を洗い流すために教室を飛び出していくと思ってたらしい。

 そういうリアクションを期待していたんだろうが、大人を舐めすぎだ。

「あいにくだが、自習にはならないぞ?」

 そう宣言すると、生徒の何人かはあからさまに落胆した表情になった。

 わかりやすく顔に出すな、お前ら。

 一方、呼び出しをくった一ノ瀬は余裕の体で、授業中だというのにガムを噛んでいる。

 どうせこのイタズラの仕掛け人は一ノ瀬に決まっている。

 さすがに鉄拳制裁というわけにはいかないが、小一時間は説教して謝罪文を書かせるぐらいはしてもバチは当たらないだろう。

 授業の間中、男子生徒の視線を全身に感じた。

 いや、男子だけでなく女子も気になるのか、ちらっちらっと胸のあたりを見てくる。

 中には堂々と胸のあたりを凝視してくるやつもいる。

 僕の胸の揺れに見とれていた男子生徒の机の前に立つと、そいつは慌てて目を逸らした。

 わざと胸をそらして、そいつの机のうえにどっかと腰を落としてやった。

 昔のドラマなんかだと「ばっかもん」と教科書を丸めて頭を叩いたりするところだが、今の世の中はそれでさえ体罰教師扱いされる。

「それじゃ○○クン、立って、教科書の××ページの最初から読んでみよっか」

「え、ええ? えっと……」

 その生徒は情けない内股のへっぴり腰で立ちあがり、しどろもどろで音読を始めた。

 股間の突っ張りを必死で隠そうとしている。

 立って読めってそういう意味じゃないぞ。という突っ込みを心の中に留めたのは、せめてもの温情だ。

 しかし、若い女性の教師は男子生徒たちに性的な目で見られることもあると聞いてはいたが、まさか自分がそれを経験することになるとはな。

 今僕がどういう容姿なのかしらないが、元の男の姿がちらついたりしないのか、こいつらは。

 そんなこんなで時間はあっという間に過ぎ、チャイムとともに授業を締めくくった。

「なるほど……こういう感じか。へえ」

 職員用トイレに駆け込み、手洗い場の鏡で女になった自分の容姿を確認。

 自分で想像していたお笑い芸人の女装のような雰囲気ではなく、ちゃんとした「女性教諭」の姿が鏡の中にあった。元の僕の面影も残っているが、どういう仕組みか化粧も施されているせいで、どこか愛嬌のあるそこそこ顔立ちのいい女教師に見える。

 ジョークグッズだから、それっぽくなるように容姿を補正しているのかもしれないな。最近のジョークグッズは侮れない。

 なんて思っていると、背後からそっと肩を叩かれた。

「もしもし、ここって男性用トイレだから。女性用はあっちですよ、あっち」

 同僚で、体育教師をやっている結城だった。

「ああ、ちょうどいいところに!」

 こいつを探しに行こうと思っていたから、手間が省けた。

 僕は身分証と職員に発行されるIDカードを見せて、結城に僕の正体を納得してもらった。

 髪型、化粧、それに服装なんかのせいでちょっと雰囲気が変わっているのは確かだが、顔つきに僕本来の面影が残っているのは鏡を覗いて確認したばかりで、おかげで結城も疑ってはいないようだ。

「また一ノ瀬たちのイタズラか。災難だったね、秋山先生」

 最近生徒たちのあいだで流行っている妙なジョークグッズの数々に悩まされているのは結城も同じなので、事情を話すと、すぐに理解してくれた。

 結城とは同じ時期に新任としてこの学校に赴任しているので、ふだんからお互い何かと情報交換をしている仲だ。頼み事もしやすい。

 遡ると、高校時代から柔道の県大会で何度もぶつかったことのある顔なじみだ。対戦成績は僕の勝ち越しだったけどな。でもこいつのほうが明るく人好きのするタイプで、生徒たちの人気投票じゃ、ぶっちゃけ三連敗中だ。

 僕は結城と一緒に職員室へと向かった。

「このなりで、ひとりで職員室入ると部外者と思われて止められそうだからなァ」

「心配すんな、俺からみんなに説明するから!」

「悪いな。それと、ついでに結城に用事があるんだ」

「お、なんだ? でも俺、放課後は部活の顧問があるからあんまり時間とれないぞ?」

「いや、そのほうがかえって都合がいい――」

 結城と一緒に職員室に入った僕は、「きみ誰?」という目で見てくる周囲の先生方に頭を下げ、事情を説明して回った。結城が手際よく説明をしてくれたおかげもあって、不審がられることもなく僕は自分のデスクに辿り着いた。

 教室の中同様、好奇の視線が全身に突き刺さるのを感じたが、つとめて気にしないようにした。

 どうせ帰宅して風呂に入れば、すぐ戻れる。きょう一日だけ我慢すればいいだけのことだ。

 それより一ノ瀬への指導を準備しないと。

 デスクの引き出しを開けた。

 その引き出しには、生徒からの没収品が所狭しと並んでいる。一ノ瀬たちからこれまでに没収したジョークグッズ類もすべてここだ。

 一応、反省文を提出すれば学期終わりに没収品は返却する決まりになっているが、もし反省の態度がみられないようなら、処分ということになる。

「手伝えなくて悪い!」

 僕の肩をぽんっと叩いて、結城は出ていった。

 結城の手が触れたところからゾクゾクッと得体の知れない感触が走って、声が漏れそうになってしまった。

 どうも女の体になっていると、ふだんより感覚が鋭くなっている気がする。何度もいうけど、ジョークグッズなのに、本当によくできているよ。

 生徒指導室で待ち構えていると、一ノ瀬と取り巻きの二人の生徒が、ノックもせず扉を開けて、入ってきた。

「ははっ。マジ受ける、まだ女のままなんですか、先生」

 僕の胸や股間のあたりに目をやりながら、一ノ瀬が挑発してきた。取り巻きも一緒になってヘラヘラと嗤っている。

 挑発に乗って手を出したりしたら、こちらの負けだ。

「一ノ瀬だけ呼び出したつもりだがな。まあ、ちょうどいい。お前ら、今から持ち物検査やるから鞄開けてみせろ」

「は? ふざけんな聞いてねェよ、ブッコロすぞ」

「残念だったな、生徒指導の一環で持ち物検査は認められてるんだよ。学年主任の許可もとってある」

 学年主任がハンコをついた書類を見せると、有無を言わさず全員の鞄を手早く集め、中身を机の上にぶちまけた。

 出るわ、出るわ、たちの悪そうなジョークグッズ類がごろごろと出てきた。

 片っ端からそれらを没収し、用意してあった段ボール箱に放り込んでいく。

「ったく……お前ら、何しに学校きてるんだ」

 例のジョシナミンXXとかいう薬品も、一ノ瀬のかばんにまだ幾つか残っていた。

 僕が男に戻っていたら、それを出会い頭に浴びせてくるつもりだったにちがいない。油断も隙もないな。

「っざけんな、返せよッ」

「お前らが素直に反省の態度を示せば、学期末に返却してやる。……反省がみられればな」

 ジョークグッズとはいえ、高価なものはそれなりの値段だ。

 これだけ大量に没収されるのは、高校生の財力ではずいぶんな痛手だろう。親がカネと権力を持っている一ノ瀬はともかく、取り巻きたちはあからさまに焦っている。

「……先生、こいつは没収しなくていいのか?」

 そう言って、一ノ瀬は制服の内ポケットに手を入れた。

 そういえば服のポケットも持ち物を検査しないといけないんだった。

 僕が身を乗り出すのと同時に、一ノ瀬は内ポケットからスプレー缶を取り出した。

 スペルザらス印の、チャームスプレーとかいう代物だ。と思う間もなく、一ノ瀬はノズルをこちらへ向け、スプレーを吹きかけた。

 とっさのことで口や鼻を覆うこともできず、噴霧された香水のようなものを吸い込んでしまった。

 瞬間、頭がクラッとした。

「センセ~、こっち見ろよ」

 スプレーされた靄状のものが晴れて、最初に目に映ったのは、一ノ瀬の顔だった。

 チャームスプレーは、女性にのみ作用し、それを吸い込んで最初に目にした男性に、強烈な恋愛感情を抱いてしまうというもの。

 要するに、即効性の媚薬だ。

 解除スプレーを使わない限り、その効能は約半日ほど持続して、女性は惚れた相手の言いなりになってしまう。

 僕の体はいま、女性の外見になっているので、その効果を受けてしまう可能性がある。

 没収品を入れた段ボール箱には、解除スプレーも入っていた。

 それを使えば、効果はすぐに――

「おっと、行かせねぇよ、センセ」

 一ノ瀬に手を掴まれる。

「どうだ、もう俺の言いなりになるしかないだろ? これで俺らの勝ち確なんだよ。センセは、そこで大人しく椅子に座ってな」

 こいつ、最初からこのスプレーを僕に使うつもりで来てたのか。

 僕は言われるがまま、椅子に腰を下ろした。

「おいおい、男みてぇに股ひらくなよ。女らしく、ちゃんと脚閉じろや」

「ああ……」

 たしかに、この容姿で、大股をおっぴろげているのは、はしたないような気がしてくる。僕はまたしても言われるがまま、タイツに包まれた両脚をぴったりと閉じた。

 いつのまにか取り巻きの一人がスマホを三脚にセットして動画を撮影していた。もちろんよからぬ目的での撮影だろう。

「よーし、それ系の動画サイトでライブ配信になってるからよろしくなセンセ?」

「……これから、どうするんだ?」

「そりゃあ、センセ、放課後の保健体育レッスンだろ?」

「僕は、現国が受け持ちだが……」

 一ノ瀬の取り巻きたちが、ゲラゲラと笑った。

「へっ、そんなエロいオンナの体しといて現国は無理だろ。俺たちと少人数の保健体育授業してるとこを動画に撮ってやるよ。そうすりゃ、今後二度と俺らに逆らえなくなるだろうからな」

「僕は男だが」

「ああ、そうだった。魅了が効いてても、ヤッてる最中に元に戻りでもしたら興ざめだからな……」

 一ノ瀬たちは「ジョシナミンXX」の蓋を開けると、僕に手渡してきた。まるでジュースでも手渡すみたいに。

「そのクスリ、裏の使い方があんだよ。体の表面にかぶるだけだと効果はせいぜい半日だけど、そいつを『飲む』と変化が年単位で固定されるってネットに出てたぜ。まあ、俺たちが無理やり飲ませるわけじゃないぜ。だけど、俺のお願いなら、きいてくれるよな?」

 念押しだと言わんばかりに一ノ瀬は、さらにチャームスプレーを噴射した。

 あたりにもうもうと霧状の成分がたちこめる。

「ああ。わかった」

 僕は液体の入った瓶を口元へ運び、そして――ぶちまけた。一ノ瀬たちへ。

 状況をまったく理解できていない一ノ瀬と取り巻きたちは、身構えもせず、頭から液体をかぶってくれた。

 液体が体表に染みこむと同時に、一ノ瀬たちは学校指定のセーラー服に身を包んだ女子生徒の外見へと変化した。

「おまっ、なんでスプレーくらってんのに……!?」

 途中で声質が少女のそれに変わり、一ノ瀬は言葉を飲み込んだ。

「お前らがそういうイタズラを仕掛けてくるかもと、対策はしてたんだよ。まったく、教師相手にいい度胸してるな」

「クッソ、ふざけんなよ!」

 女子生徒の外見になった一ノ瀬たちが口汚くののしる。

 だが、可愛らしい声になってしまって、まったくの逆効果だ。

 女子になって上背もずいぶんと縮んで、華奢な体格になっている。

 はしたなく服の裾をまくりあげ、変わり果てた自身の体をまさぐって上擦った声を漏らし、ようやく自分たちの姿の変化を正しく認識したようだった。

 このジョークグッズがどういう原理で衣装まで変化させてるのかは相変わらず謎だが、女子になった一ノ瀬はギャルっぽい派手なシュシュで髪をまとめたりして、ずいぶんと可愛らしい雰囲気になった。

 まあ、中身とのギャップがすごいことになってるが。

 そんな姿になっても一ノ瀬は僕の胸ぐらを掴んできた。

 でも、腕力まで女の子になっているから、簡単に振りほどける。僕も女の細腕になってはいるが、こっちは柔道有段者だ。

 僕は三脚に据えられたスマホを指さした。

「せっかく動画撮影してんだ。反省文の代わりにいままでのイタズラの謝罪動画でも撮ってYoutubeに上げたらどうだ?」

「ハァ? 誰が謝罪なんてするかクソカスが。覚えてろよ!」

「あ、おい、待ちなさい――」

 止める暇もなく、捨て台詞を残して一ノ瀬たちは生徒指導室を飛び出していった。

 あーあ、親切心で待ったを掛けてやったんだけどな。

 さっき一ノ瀬たちが「チャームスプレー」を大量に撒き散らしてたせいで、連中は女子化したあと、たぶん自分たちもスプレーの成分を吸っている。

 今の僕が女子化しているから影響がないように見えたけど、そんな状態で部屋の外に出たら……。

 連中のスマホはまだライブ配信とやらの撮影を続けていたようなので、一ノ瀬たちが今度は男女逆の立場でまた不祥事を起こさないことを祈るばかりだ。

 ああ、なんで僕がスプレーの影響を受けなかったかって?

 それは実に、簡単な話だ。

 説明書によればあのジョークグッズは、それを吸った女性が最初に顔を見た異性に「魅了」されてしまうというものだ。

 だから僕はあらかじめ、没収品の中にあったスプレーを自分に吹き付けてから、隣に待機させていた結城の顔を見た。正直、その瞬間、胸が高鳴った。遺憾なことに。

 ――今の僕は結城に魅了されている。

 魅了されているんだが、当の結城はそのことを知らない。

 おまけに結城は部活の顧問として体育棟へ行ってるから、当面は鉢合わせることもないので、僕は普通に理性を保って行動できる。

 すでに魅了状態にある僕は、一ノ瀬たちにスプレーをかけられたところで、特に影響を受けないというカラクリだ。

 さて、結城が戻ってこないうちに、今日はさっさと帰宅してしまおう。

 没収品をまとめて段ボール箱に放り込み、生徒指導室を出たところで――

「よっ、秋山先生。って、重そうだな、その箱。持ってやるよ」

 目の前に結城がいた。

 なんで突然湧いてきたんだ。マジで。

 僕と結城は、揃って帰宅の途に就いていた。

 さっきから妙に体が火照って、歩きにくい。

「でさあ、今日はシロアリ駆除の業者が入ってるから部活休みになってるのすっかり忘れてて。体育棟行く途中で生徒に指摘されて恥かいちゃったよ」

「あぁ……そいつはダサいな」

 屈託のない笑顔で、結城は、あははと笑った。

 部活顧問の仕事がなくなって暇になったから、僕の様子を見に引き返してきたらしい。

 おのれ、シロアリ駆除業者め。いや、まあ、業者に罪はないが。

「――あのさ、秋山先生。もしかして、女子化の副作用で具合悪いのか?」

「え? いや、これは、そういうわけじゃ……」

 さっきから僕は、結城の腕に掴まるようにして、少しふらついて歩いている。

 しょうがないじゃないか。

 あのスプレーの効果がきれるまで、僕は結城に「魅了」されたままだ。

 理性ではジョークグッズの作用だって分かってても、こいつへの恋愛感情を強制されて、どんなことでも言いなりになってしまう。

 正直、胸が高鳴りっぱなしで、全身が熱い。足がもつれそうになるのは、そのせいだ。

 結城の雄らしい体臭が心地良くて、つい体を密着させてしまう。

 胸のふくらみが、結城の腕に押し当てられ、変形した。

「あのぉ、秋山先生? ちょっと『当たって』いるんだけど」

 当ててんだよ、このばかちんめ。

 こっちだって、好きでやってんじゃないけど、自然とそうなっちゃうんだよ。

 もう正直に結城に事情を打ち明けようか。

 でもな。この僕が、結城にベタ惚れして胸がキュンキュンしてるなんてこと――。当人にだけは死んでも知られたくないんだよな。

 ――なんていう躊躇いが、事態の悪化を招いてしまった。

「うわっ、なんか顔赤いんだけど。さっきからフラフラしてるし」

「大丈夫、大丈夫だから」

「無理しないほうがいいって。俺のアパート、このへんだから。ちょっと休んだほうがいいよ、マジで」

 な、何言い出すんだ、こいつ。

 そういやこいつは、学校近くのボロアパート住まいで、ときどき若手教師仲間の飲み会の場になってたりしたけど。

 結城はただの親切心で言ってるんだろうけど。

 いまの状況でそんなこと言い出されたら――。

 勿論、断れる筈もない。

 気付けば、僕は結城の住んでいる1DKのアパートにあがりこんでいた。

「体調はどう?」

「……もう大丈夫」

「ベッド使っていいから、楽にしてなよ。あ、茶でも飲む?」

「……お構いなく」

 キッチンに立とうとした結城の手を掴んで引き寄せた。

 さっきから、結城の歩き方がぎこちなかった。

 なんだか妙に、腰がひけたような足の運び方になっていた。

 男の僕にはすぐその原因がわかってしまう。

 手を伸ばしてそこに軽く触れてみると、予想通りの強張りがあって、結城がビクッと反応した。

「あ、秋山先生!? こ、これはそういうんじゃなくて……っ!」

「気にしなくていいよ。別に……男だったら、普通の反応だろ?」

「いや、その……女子化した秋山、先生に……欲情したとかいうわけでは決してなくて!」

 いやいや、明らかに欲情してるから。

 それが嫌じゃない今の自分の感覚が信じられないけどな。

「別にいいじゃん。どうせ日頃、部活の指導とか、会議とかで忙しくて、ロクに遊んでないんだろ。僕もそうだからわかるけど」

 僕は結城を上目遣いに見上げた。

 ごくりと唾を飲む音が聞こえてくるようだった。

「べ、別に変な感情があるわけじゃないんだけど――。せっかくこの姿だし、あれだ、ほら、『事務的』な感じでよかったら、性欲解消、手伝ってやろっか?」

 待て待て。

 僕は何を口走ってるんだ。

 ジョークグッズで一時的に女子化した姿になってるだけで、僕は男だし、結城もそのことを知ってるんだぞ。お互い性指向が女だってことも、よく知っている。

 よし、結城。さっさと断ってくれ。

 なんならこの部屋から叩き出してくれてもいいぞ。そんなことされたら、泣くけどな。

 っておい、なんでちょっと満更でもなさそうなんだよ!

「まいったなァ。その外見でその提案は、反則でしょ……」

 童貞でもないくせに、結城は真っ赤になっている。

 どうやら、女子化した僕の顔は、結城のストライクゾーンだったらしい。

 マズイ展開になってきたというのに、魅了された僕は、結城の反応に自然と顔がほころんでしまう。

 結城は手でOKサインを作ってみせた。

 全然OKじゃないんだよ、こっちは!

 結城はそそくさとシャワーを浴びて戻ってくると、僕にもシャワーを使うように促してきた。

 何度もいうけど、僕は結城に何か命じられたら、言いなりになってしまう。結城がそういう行為を望んでいる以上、僕はそれに全力で応えてしまう。

 そして――。

 シャワーを浴びたことで、全身に染みついていた女子化の成分が洗い流され、僕は男に戻った。

 ちょっと野太い悲鳴が出かかったが、それはシャワーの音に掻き消された。

 ほんの数時間のことなのに、懐かしい気がする。

 浴室の鏡に映る、自分の本当の外見。元の身長に戻ったことで、視界もいつも通りになった。

「そうだよ。こいつはジョークグッズだから、洗い流せば元に戻れるんだった」

 これで万事解決、じゃなかった。

 というか――事態が悪化した。

 チャームスプレーの魅了効果はまだ効いている。そろそろ効果が切れてくれるかと思ったのに、まだばっちり魅了状態だ。

 このままだと僕は男の状態のまま、結城の性欲解消を始めてしまう。

 魅了状態の僕はそれが嫌じゃないが、結城はまあ、拒否するだろう。

 だめだ。この体だと、結城を満足させられない。それじゃだめだ。なんとかしないと。

 浴室から出たところに僕の荷物が置いてあった。

 鞄の中をまさぐると、あった。――『ジョシナミンXX』というラベルが目に入ってくる。

 ガラス瓶入りの女子化薬。

 一ノ瀬たちの持ち物検査をして、追加で没収したものだ。

 こいつをもう一度、浴びれば――!

「待てよ……」

 女子化薬を浴びてまた女子化したとしても、効果時間は数時間から、長くて半日程度だ。

 下手すると朝チュンになって、結城の腕の中で男に戻ってしまう可能性がある。それは避けたい。

 どうする、どうする。

 そのとき、一ノ瀬の言葉が脳裏をよぎった。

『そのクスリ、裏の使い方があんだよ――そいつを『飲む』と変化が年単位で固定されるってネットに出てたぜ――』

 逡巡する間もなく、僕は瓶の中身を飲み干していた。

 女子化薬は、ほのかにしょっぱい涙のような味がした。

 効果はすぐにあらわれた。

「あ、あっ……」

 喉仏の突起が消え、体が縮む。全身の筋張ったところが、やわらかい曲線で置き換えられ、長く伸びた髪が背中にかかった。

 バスタオルで体を覆うと、僕は、そわそわと待っていた結城の前に立った。

 結城の股間は臨戦態勢になっていて、僕も自分の大事な部分がいつのまにか濡れていることに気付いた。

 そのあとのことは、あまり思い出したくないが、僕の行為は正直、事務的というレベルには留まってなかった気がする。ちょっと、いや、だいぶ声も出てしまって、隣の部屋から壁ドンがあった気もする。

 そして、ものの見事に僕らは、朝チュンを迎えた。

 テレビドラマの効果音みたいに、本当に窓の外でスズメたちがチュンチュン鳴いていた。

 目が覚めたとき、そこはベッドの上で、僕は結城の腕の中にいた。

 女の姿のままで。

 ただし、魅了の効果だけは、とっくに消えていた。

 魅了の靄が消えてクリアになった脳細胞で、僕は事態をはっきりと認識した。

「やらかした……」

 口から漏れた呟きは、透き通るようなソプラノボイスだった。

 結城の腕から脱しようと身を捩ったとき、またぎゅっと抱きしめられた。

 もう魅了の効果も残っていないのに、ジンと痺れるような感覚が全身にめぐった。

 結城も目が覚めたみたいだ。

「ちょっ、離せって」

「秋山先生、女のいい匂いがする……」

「ちょ、ちょっ――!!」

 身を捩ったはずみで、結城の体のとある部位が、元気に立ち上がっているのがわかった。

 結城に背後から抱きすくめられながら、第二回戦のゴングを聞いた気がした。

 これはあまり認めたくはないのだけど――結城は、「上手」だった。

 たぶん、僕よりずっと経験豊富なんだろう。

 結城の手が僕の体の表面を撫でていくだけで、へなへなっと力が抜けて、抵抗できなくなってしまう。

 そういえば……。

 最初の行為のとき、途中で魅了の効果が切れた感覚があった。

 それなのに、未知の、そして圧倒的な快感に流されて、ついつい最後まで「して」しまったのだった。

「やめっ、離せ、あ、あっ……あっ……♡♡♡」

 あれから一年。

 困ったことに、僕はいまだに女のままだった。

 元に戻る方法を問い合わせるためにジョークグッズの製造・販売元である「スペルザらス」という会社に連絡をとろうとしているのだが、一ノ瀬たちが商品を買ったというショッピングモール内の雑貨屋は、忽然と姿を消していた。

 それどころか、商品説明書の連絡先に電話しても、その番号は使われていません、という案内が流れるだけだった。

 ネット上の検索にも引っかからない。まるで、そんな会社なんて最初から存在しなかったとでもいうように……。

 医者に診てもらったところ、遺伝子レベルで完全な女性になっているらしい。実際、月一で生理もくるから、大変に鬱陶しい。

 女子化薬の成分も調べてもらったのだが、ただの生理用食塩水だという。

 医師には、そもそもジョークグッズなんかで男が女になったりする訳ないじゃないですか、と言われてしまいとりつく島もなかった。

 しばらく仕事は休んでいたが、ずっとそうするわけにもいかず、今日から本格的に職場復帰することになっている。

 当面、男に戻れそうにないので、不本意ながら同僚の女性に、化粧の仕方や女性用下着の着け方などを叩き込まれて今日に至っている。

 もちろん、男に戻ることをあきらめたわけじゃない。

 いつか、この女子化の原因を突き止めて、男に戻ってやるからな。

 なぜか周囲の人間のあいだで、僕が元々は男だったという記憶が薄れがちになっている。ただし結城だけは、学生時代からの付き合いだったせいか、ちゃんと僕のことを男と認識している。

 結城にはちょいちょい、僕が男に戻るための作戦会議に付き合ってもらっている。

 その見返りとして、ま、たまにだが、結城にはこの体を抱かせてやっている。

 あくまで、僕への協力のご褒美だ。

 決して、僕が女子としてのセックスの快感にはまったとか、そんなことは断じてない。

 最近、結城とルームシェアのようなことを始めたが、それはあくまで合理性を追求した結果であって、実質同棲じゃん、なんて言われ方をするのははなはだ心外だということは明言しておく――。

 遠い空の下、とあるショッピングモールの片隅で、しわがれた笑いが響いた。

 老いた男は、虚空に映し出された秋山と結城の様子を、愉悦に満ちた表情で眺めていた。

「……そのクスリの効果は、体の中に取り込んだときも、本来はせいぜい一ヵ月で消えるんじゃよ。ただ喃……男と『寝て』しまうと、効果がまた一ヵ月ほど延びる。お前さんが一年経ってもその姿のままなのは――ファッ、ファッ、そういうことじゃな。それに万一じゃが、その姿で孕んだりすると、一生戻れなくなるのじゃが――ファッ、ファッ、せいぜい頑張って一日も早く男に戻れるといい喃!」

(完)

20250504 初出

小説

Posted by amulai002